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リールの最後のコマ

The Last Frame on the Reel

  • 3,636字
  • 約7分

十一月二十六日、本社の清算準備班から指示が下りてきた。清算に備えて、すべての勘定を撮影し保存せよ。一つの勘定も漏らさずに。資料室の全員がその仕事にかかり、私は端末と判読機の前で口座元帳を一件ずつフィルムに写した。

はじめは単純な保存作業に見えた。消えるかもしれないものを先に撮っておく仕事。しかし一時間が過ぎて、私は手が冷たくなるのを感じた。私がひとつの勘定を撮ってフィルムに写すたび、上の階の端末でその勘定の状態が「解約」に変わった。はじめは偶然だと思った。私が撮る順と勘定が閉じる順が同じであることが。

私は試した。名簿の次の勘定をわざと飛ばし、その次のものを先に撮った。上の階では、私が先に撮ったその勘定が先に閉じた。飛ばした勘定は開いたまま残った。順序は偶然ではなかった。保存がそのまま清算だった。撮っておくことと空にすることが、ひとつの行いだった。

清算準備班は「保存せよ」と言った。しかし保存されたものは閉じた。測量技師が測れば深くなったように、司書が読めば裂けたように、私は撮れば閉じた。フィルムは勘定の写真ではなく、勘定の墓だった。私は会社の勘定をひとつずつ埋めていた——保存という名で。

私は手を止めたかったが、止めれば誰かが代わりに撮ることを知っていた。だから撮りつづけた。名簿は長かった。数千の勘定。私はそれを埋め、また埋めた。名簿の終わりに辿り着いたとき、最後の項目の前で私は止まった。

顧客の勘定がすべて終わったあと、名簿のいちばん下にもう一行あった。資料室保存勘定。口座番号の欄には数字の代わりに、私の社員番号が記されていた。名義人の欄には——キム・ドギョン。状態の欄はまだ「待機」で、解約予定日の欄には十二月██日が打たれていた。

すべての勘定を撮って埋める名簿は、撮る人の勘定で終わっていた。最後の一コマは、私が私を撮るコマだった。

資料室のいちばん奥の保管庫、前任者ハン・ソン█の未整理の遺品のあいだから、私は巻き終えられたフィルムのリールをひとつ見つけた。十一月の初めに私がかけた、半分だけ露光したあのフィルムではない。それは最後まで撮り切られた、彼の最後の完成リールだった。ラベルには彼の字で一行が記されていた——「生きている帳簿。最後まで」。

私はそれを判読機にかけた。最初のコマは外債元帳の一頁だった。短期外貨借入金の合計。次のコマも同じ頁だった。同じ帳簿、同じ欄。しかし合計の末尾が一つ大きくなっていた。次のコマ、また一つ。そのまた次のコマ、また。

フィルムは動かないものを留める媒体だ。ひとたび光に焼きつけられた像はそこに固定される。それが写真の約束だ。しかし前任者のフィルムはその約束を破っていた。同じ帳簿を撮った連続するコマのあいだで、数字はコマとコマの間ごとに育っていた。彼は育つ帳簿を撮ったのではなかった。フィルムの上で、焼きつけられた像のなかで、数字が育ちつづけていた。写真すらそれを止められなかった。光に焼かれたあとも、数は育った。

私は分かった。前任者が何を確かめようとしたのかを。「最後まで」と彼はラベルに書いた。彼は育つものを最後まで撮って、止まる地点があるかどうかを見ようとしたのだ。坑の底のように、デフォルトの下の格付のように、育ちに終わりがあるのかを。リールは長く、コマごとに数は大きくなり、終わりは来なかった。

リールの最後のあたりで、画面が変わった。帳簿の頁ではなかった。カメラが帳簿から向きを変え、資料室そのものを撮っていた。判読機と保管庫、低い天井。私が毎日見ているあの部屋。そしてその部屋の真ん中、判読機の前に、ひとりが背を見せて座っていた。

その人はハン・ソン█ではなかった。髪の形も、肩の線も、着ているものも——私だった。今日の私。いまこの瞬間、判読機の前に座っている、まさにこの姿勢の私。前任者の最後のコマは、彼が消える前に撮ったものではなく、今日、誰かが私の背後に立って撮ったものだった。

私はゆっくり振り返った。

後ろには誰もいなかった。判読機のモーター音、保管庫の影、低い天井。私を撮った手は体を残さなかった。それはいつもそうだった——灯台守の空の灯塔にも、測量技師の空の坑にも、誰ひとり立っていなかった。ただ記録だけが残った。撮られたコマ、記された行。「我々」は体ではなく記録だった。

私はカメラを置いて、前任者の紙の記録に戻った。彼の引き継ぎ書類、業務日誌、索引カード。私はそれらを最初から最後まで読み直した。今度はひとつを確かめるために。彼の最後の行がどう終わっているのかを。

彼の最後の日誌は、終わっていなかった。

文の途中で止まっていた。句点も、次の行もなく。ペンが紙を離れた場所に、薄いインクの跡だけがにじんでいた。私はその途切れを見分けた。司書の日誌もそのように終わっていた。灯台守も、測量技師も、電信手も——四束がすべて、一つの文の途中で切れていた。それは偶然の中断ではなかった。それは署名だった。記録する者が記録される側へ渡る瞬間、文はそこで切れる。終わりの文がないということが、彼が法則の内側へ入ったという証拠だった。

前任者も例外ではなかった。彼はこの箱を整理した人でも、この記録を収めた「我々」でもなかった。彼もまた五番目、六番目の手のひとつにすぎなかった。私のように読み、私のように写し取り、私のように切れた。彼が残した最後の文を、私は灯りの下で読んだ。

帳簿の下で育つ真の数を、私はいま写し取ることに——

そこで切れていた。「写し取ることに——」の次の文字はなかった。そして私はその文に見覚えがあった。それは私がここ数日、心のなかで組み立てていた文だった。最後まで読み、真の数を見て、いまそれを記すことにする——私が近づきつつあったあの決心。前任者の文は、私の決心が始まろうとするまさにその場所で止まっていた。

四束はなぜ終わらないのか。いま分かった。それらは終わりようがない。終わりの文は次の読者が書くものだからだ。切れた文を継いで書いた瞬間、継いだ者が次に切れる人になる。それがこの記録の受け継がれ方だった。ひとりが「写し取ることに——」で止まれば、次の人がその文を完成させ、完成させた代価として自分の文をそこで失う。

私はペンを取った。前任者の切れた文の次の欄に、次の一文字を書くことができた。その一文字が何かを私は知っていた。そしてそれを書いた瞬間、切れる人が彼ではなく私になることも。

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