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営業停止の律動

The Rhythm of Suspension

  • 3,599字
  • 約7分

カン・ミンソクは同期だった。同じ年に入り、同じ新入社員研修を受け、しばらく同じ社員食堂で昼を食べた。

十二月二十日。その日の朝、カン・ミンソクが私の資料室へ降りてきた。上の階の資金部の空気が堪えがたかったらしい。彼はいつものように話した——会社が危ういという噂、コール市場で一日分の資金を工面できないという話、営業停止がどこまで広がるか分からないという不安。そしていつものように、自分の暮らしの話へ移っていった。去年もうけた子ども、この春に無理をして入った家、まだずいぶん残っている融資。

私は彼の言葉を二重に聞いた。上の層では同期の心配だった。下の層では、昨日、五番目の束のいちばん下の章で先に読んだあの一行だった。カン・ミンソク。子ども、融資、家。彼が自分の口で語る暮らしが、私が昨日先に読んだ帳簿の項目と一字も違わずに重なった。

人の暮らしはすでに一行の帳簿だった。融資は負債で、家は担保で、子どもは扶養で、月ごとに入る給料は現金の流れだった。ふだんはそれを帳簿として読まないだけだ。けれど法則はそのありふれた一行を帳簿の下へ移し、育たせ、擦り減らせた。擦れて消えていく次の線が生きた人だという言葉を、私は同僚のなかにはじめて字義どおり見た。

私たちは同期だった。同じ年に入り、同じ場所で始めた。私は前任者の空いた机を引き継ぎ、彼は写し取られてから消えた。カン・ミンソクを見ながら、私はもう一つの空いた机を先に見た。同期が一人ずつ線から擦れて抜けていく場所を。

カン・ミンソクが何気なく語尾を濁した。……測れば深くなり、満ちれば嵩を増し。 彼は自分が何を言ったか知らなかった。それは私が記しただけで口にしたことのない、四束の文のひと切れだった。分節は彼を通して広がりつづけていた。彼は運んでいる線を知らないまま運んでいた。

怖いのは別にあった。私が彼を一行として読むその瞬間、私はすでに彼を写し取る手になっているのかもしれない。測れば深くなり、読めば移る。彼を帳簿として見まいと目を逸らせば済むだろうか。けれど私は知っている——記さないことにも代価がある。誰かが代わりに記す。見ないからといって彼が線から抜けるのではなかった。見ようと見まいと、彼はすでに私の束のなかの一章だった。

その日の午後、ラジオがまた一つの投資銀行の営業停止を告げた。私は日付と名前を聞きながら、それが止まる順序が灯台の潮時表をなぞっているのを知った。一こまずつ、決まった間隔で、順に。次に止まるこまがどこか、私にはもう指せた。そしてそのこまが引いていく線の上のどこかに、カン・ミンソクの会社があった。

営業停止はいっぺんには来なかった。一こまずつ、決まった間隔を置いて、順に来た。

十二月二十一日。私は灯台守の潮時表を机に広げ、その隣に投資銀行の名簿を並べて置いた。二枚の紙は別の手が別の年に記したものだ。けれど律動が同じだった。潮時表で満潮と干潮が決まった間隔で戻ってくるように、名簿で会社が決まった間隔で止まった。満ちれば嵩を増し、引けば露わになる。満ちるとき一つが沈み、引くとき一つが底を見せた。

ラジオは日ごとに一つ二つ新しい名を読んだ。私はその名を聞く前に、潮時表の上で次のこまを指せた。コール市場の一日分の資金が一つの線から次の線へ移っていく場所。そこに置かれた会社が、次の干潮で底を見せるところだった。ラジオがその名を読むとき、私はもう指しておいたこまを指で押さえていた。

これは予言ではなかった。私は未来を見ているのではなく、すでに記されている線を人より先に読んでいるだけだった。潮時は予告ではなく法則だった。満ちれば必ず嵩を増し、測れば必ず深くなる。営業停止もそうだった。それは降りかかってくる事件ではなく、ずっと育ってきていま水面の上へ現れる線だった。帳簿の下で育っていた数が、ついに帳簿の上へ上がってくる場所。

私は指を潮時表の上でもう一こま先へ滑らせてみた。次の干潮、その次の干潮。こまは正直に線を引きながら前へ進んでいった。そしてその線が触れる場所のなかで、一つのこまがカン・ミンソクの会社の名と重なった。数日後の干潮だった。まだラジオはその名を読んでいない。けれど潮時表はすでにそのこまを空けておいた——入ってくる番を待つ空欄として。

指を離してもこまはその場にあった。私はそれを読み、読んだものは消えなかった。次の干潮まで、私はその空欄を一つ、先に知ったまま過ごさねばならなかった。誰にも言えないまま。

先に読むことに終わりはなかった。一度次のこまを指してしまうと、私はその次のこまを、またその次のこまを指したくなった。

十二月二十二日。朝ごとに私は端末の前に座った。起動とログインのあいだ、黒い面に私の顔が映り社訓が浮かんだ——そして画面が目を覚ますと、そこに明日の日付の名簿があった。今日止まる会社ではなく、明日止まる会社。私はそれを読んだ。ラジオが今日の名を読むより先に、私は明日のぶんをもう知っていた。

はじめは一こまだった。次は二こま、三日ぶん、一週ぶん。先に読むほどもっと先を読みたくなった。知らずにいることが堪えがたくなった。名簿を読まなかった朝は霧のなかを歩くようで、読んだあとの朝は——恐ろしいことに——安心だった。何が来るか分かれば、少なくともその場で震えはしない。私は先読みに寄りかかりはじめた。

電信手の日誌が思い浮かんだ。彼は応答するなという戒めを受けた。聞こえないものを聞き、来ていない電文へ手が伸びた。私はいま彼の席に近かった。先に読むことは聞くことだった。そして聞いてしまうと、端末の発信欄が空いたまま点滅した。受信、私。発信、空欄。読むだけならその欄は空いていた。けれど一字でも埋めれば——それは応答だった。先読みと応答のあいだには、空欄一つぶんの距離しかなかった。

私はもう帳簿の上で偶然に線と出会う人ではなかった。私は朝ごとに腹を決めて明日を読みに来る人だった。読む者から先に読む者へ。そして先に読む者の指先は、空いた発信欄の上でしきりに躊躇った。まだ押さないまま。

その日の朝、端末の明日の日付の名簿は長かった。一つ二つではなかった。一画面をいっぱいに埋めてなお下へ続いた。一こまずつ順を守っていた潮が、次の干潮でいっぺんに引こうとしていた。名前がぞろぞろと底を見せるところだった。それはもう一行ではなく、発表だった。私は明日ある発表を、今日の朝に先に読んだ。

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