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第七十章

Page Seventy

  • 3,706字
  • 約11分

七月三日。日誌を開いた。第六十九章だった。

何を書くかは昨日決められず、今日も決まらなかった。私は章番号と日付だけを書いて、その下を空けておいた。空けたまま、引き出しにしまった。

空けておけば、書かなかったことになると思っていた。けれど章番号は、もう書いてあった。

前任者のノートにも空いた章があった。スキャンのとき、私はそれを作業の中断として読んだ。忙しかったか、具合が悪かったか、忘れたか。空いた章を三つ飛ばして、次の章からまたスキャンした。

いま思えば、その三章にも章番号があった。番号があるということは、その人がその日ノートを開いたということだ。開いて、番号を書き、その下を空けた。

四日間、そのままにしておいた。そのあいだ仕事はいつもどおりにした。請求を処理し、返事を書き、登録を済ませた。対照表は開かなかった。写しも開かなかった。開けば一つ上がり、上がれば増えるということを、私は六月に学んだ。

七月七日、私はあの行をもう一度見に行った。

行かないように四日間こらえた、というのが正しい。こらえた四日間、私の考えていたことは一つだった。あの行の空いた場所が何で埋まるのか。そのことを考えているあいだはあの行を開かなかったのだから、私は開かないまま、四日間ずっとあの行を読んでいたことになる。

書き写したホームページを開いた。あの行はその場所にあった。第六十九章、日付、そして数値が二つ。一つは相変わらず十一だった。もう一つは、埋まっていた。

十四。

数字を三度読んだ。三度とも十四だった。

数字を見てから、私は検索をした。六月と同じ検索語、同じ順番で。

十四か所が出てきた。

五日前には十一か所だった。そのあいだに三つ増えた。増えた三つは、みな書き写したほうだった。写真で上げたものではなく、字で打ったもの。

三つのうち二つは、前のものをもう一度写したものだった。写した人が前書きにそう書いていた。原本が見つからないので、他人の文章を書き取ったと。一人が書き写したものを別の人がまた書き写し、その人のものをさらに別の人が書き写した。

三つめは違った。前のものたちと段落の切れ目が同じではなく、行が一つ多かった。その行がどこから来たのか、私には確かめられなかった。確かめるには前の十三をすべて開き直さなければならず、十三回開けば十三上がる。

ここまでが確認だ。確認は私の仕事だ。

その先は、確認ではない。

私はあの行を先に見て、それから数えた。順序がそうだった。六月は逆だった。六月は私が数え、その数字を表に書いた。七月は数字が先にあり、私がその数字を確かめに行った。

二通りに読むことができる。

一つ。誰かが私より先に数えて書いておいた。インターネットに上がったものを数えることは誰にでもできる。こちらで読めば、おかしなことは何もない。ただ、その人がなぜ私の日誌の章番号をつけたのかが残る。

二つ。その数字が先に書かれ、そのあとで十四か所になった。こちらで読めば、説明のしようがない。

見分けるには、確かめなければいい。書かれた数字を見ても数えなければ、その数字が合っているのかどうか分からないまま残る。分からないまま残れば、二つめの読み方は成り立たない。

けれど私は、もう数えてしまった。

数えずにいられただろうか。あの行に数字が書かれていて、その数字が私の日誌の章番号をつけているのに、数えずに一日を過ごせただろうか。四日こらえた者として、私はその問いに答えられる。こらえられる。ただし、四日だった。

こらえているあいだも私はあの行のことを考えていたし、考えることと開くことのあいだにどんな違いがあるのか、いまの私にはよく分からない。訪問者の表示が上がらないという違いはある。その違いがすべてなのかは、分からない。

四日こらえたことが無駄だったという意味ではない。四日のあいだに写しは増えた。私が開かなくても増えた。だから、私が開くことが増やすただ一つの原因ではない。

ただ、私が開くことが原因ではないという意味でもない。四日のあいだ別の人たちが開き、そのあいだ私が開かなかっただけだ。私が開かなかった四日は、他人が開いた四日だった。誰も開かない四日というものは、この世にない。

ここで私に何が確かめられるのかを、紙に書いてみた。書いてみると一行だった。何も確かめられない。

測量日誌のあの人は、同じ場所を何度も測った。数字が一方向に大きくなり、あの人はそれを書き続けた。私はあの表を誤差の記録として読み、六月に読み直した。

今日三度目に読むと、別のものが見える。あの人は、自分が何をしているのか分かっていたのだろう。分かっていて、書き続けたのだ。測らなければ分からず、分からなければ書くことがなく、書くことがなければ、あの人がその場所にいる理由がない。測る人が測るのをやめれば、測る人ではなくなる。

私は資料を管理する人間だ。

書き写した版のほうがよく育つということは、六月に書いておいた。写真は撮っておいたもので、字で打ったものは人の手がもう一度通ったものだ。手が通ったほうが、よく増える。

私の日誌は、どこにも上げたことがない。引き出しにあり、引き出しには鍵をかける。

それなのに、写しに私の日誌の書式がある。章番号と日付と、判断のない数値。書式だけではない。章番号は、私の日誌の番号についてきている。昨日私が第六十九章を空けておいたとき、写しの第六十九章には数字があった。

写し取られたのでないとしたら、何なのか。

私は写し取る人間だ。着任してから私がしてきたのはそれだ。紙をガラス板に載せて撮り、撮ったものを登録し、登録したものを社内網に上げた。手がもう一度通ったほうがよく育つのなら、この資料にいちばん何度も手を載せたのは私だ。

だから、こうも読める。私が写し取ったのではなく、私が写し取られている。

この文を書いてから、私は長いこと座っていた。書いたときは意味が通るように思えたのに、書いてから読むと何のことか分からなかった。それでも消さなかった。消すことも書くことだという言葉を、私はどこかで読んだ。どこで読んだのかは探さなかった。

退勤のとき、私は第七十章を書き終えた。今日したことを順に書き、数値を書いた。次回の数値は空けておいた。空けた場所に、章番号はもうついている。

書き終えてから、写しをもう一度開いた。

あの行の下に、もう一行あった。第七十章。今日の日付。そして数値が二つ。一つは十四だった。

もう一つは、空いていた。

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